「ワーキング心理学(Psychology of Working)」

ブルースティン(David L. Blustein)が提唱した「ワーキング心理学(Psychology of Working)」は、従来のキャリア発達理論が対象にしてこなかった「特権を持たない人々」や「選択の自由がない労働」に光を当てた、現代キャリアカウンセリングにおける非常に重要なパラダイムシフトです。

スーパーやクランボルツなどの伝統的なキャリア理論は、主に「自分で職業を選択できる自由(特権)」を持つ中産階級の人々を前提として発展してきました。しかし、ブルースティンは「世の中の多くの人々は、生きるために選択の余地なく働いており、キャリア(Career)ではなく労働(Working)をしているのだ」と主張しました。

この理論の根幹をなす重要なポイントを整理して解説します。

1. 労働(Working)が満たすべき「3つの核心的欲求」

ブルースティンは、人間にとって働くこと(Working)は、単に収入を得る手段であるだけでなく、以下の3つの心理的・社会的欲求を満たすための根源的な活動であると定義しました。

  • 生存と権力の欲求(Survival and Power)食糧、住居、医療など、生きていくための基本的なニーズを満たすための欲求です。また、経済的な安定を通じて、自分の人生をコントロールする「権力(力)」を得ることも含みます。
  • 関係性の欲求(Social Connection)職場での同僚、顧客、社会とのつながりを通じて、孤立を防ぎ、社会的な帰属感を得たいという欲求です。労働は、他者と結びつくための強力なプラットフォームとなります。
  • 自己決定の欲求(Self-Determination)自分の意志で行動し、成長や意味を見出したいという欲求です。これには、仕事を通じて自己の有能感や、人生における目的・意味を感じることが含まれます。

2. ワーキング心理学の「2つの主要モデル」

ブルースティンらの研究は、時代とともに洗練され、現在は主に2つの理論的フレームワーク(モデル)で説明されます。

① ワーキング心理学のフレームワーク(2006年)

初期の提唱では、労働を「社会的・経済的文脈(文脈主義)」の中で捉えることの重要性が強調されました。個人の適性や興味(内的要因)だけでなく、人種、ジェンダー、社会階層(SES)、地域経済、労働市場の流動性(外的要因)が、個人の働く経験に決定的な影響を与えていることを示しました。

② 得るべき仕事の心理学(Psychology of Working Theory: PWT / 2016年)

2016年にデュフィ(Duffy)らと共に発展させたPWTでは、「まともな仕事(Decent Work)」を手に入れるための因果モデルが提示されました。

「まともな仕事(Decent Work)」の5つの条件(ILOの定義に基づく)

  1. 物理的・心理的に安全な労働環境
  2. 休息や余暇が保障されたヘルスケア
  3. 適切な家族や生活を維持できる十分な報酬
  4. 法的・社会的な保護
  5. 価値観や尊厳が守られる人間関係

この「まともな仕事」に就くためには、個人の努力(心理的資本)だけでなく、「経済的制約」「社会的差別(マージナライゼーション)」という障壁をいかに乗り越えるかが鍵となります。そして、その障壁を緩和する要素として「キャリア適応力(Career Adaptability)」と「批判的意識(Critical Consciousness:社会の不平等に対して声を上げ、変革しようとする意識)」の2つが重要であるとされています。

3. 伝統的理論(キャリアカウンセリング)との違い

比較軸従来のキャリア発達理論ワーキング心理学(PWT)
対象者職業選択の自由を持つ層(中産階級・高学歴)すべての働く人々(特に社会的弱者や困窮層)
核心概念キャリア(生涯にわたる職務経験の連鎖)ワーキング(生きるための労働、日々の営み)
アプローチ自己理解、興味・適性と職種の「マッチング」社会的文脈の理解、「障壁(制約)」への対処とエンパワメント
ゴールの定義自己実現、満足度の高い天職(Calling)の発見「まともな仕事(Decent Work)」の確保と、3つの欲求充足

4. カウンセリング実務(実践)における意義

ワーキング心理学を実際の相談業務(キャリアコンサルティングなど)に適用する場合、カウンセラーには以下のような姿勢とアプローチが求められます。

  • 文脈への深い共感と理解「本人が何をやりたいか(内的動機)」に焦点を当てる前に、クライエントを取り巻く「経済的制約」「家族の介護」「労働市場の厳しさ」といった動かしがたい現実(文脈)をそのまま受け止め、評価します。
  • アドボカシー(権利擁護)と社会正義不適切な労働環境や差別に苦しんでいるクライエントに対し、個人だけの問題(自己責任)に帰せらせるのではなく、社会的な制度やリソースの活用、時には組織や社会への働きかけ(アドボカシー)を視野に入れます。
  • 「適応力」と「批判的意識」の育成クライエントが直面している社会の理不尽さや障壁を客観的に認識し(批判的意識)、その中で自分の人生の主導権をいかに取り戻すか、という主体的な選択(キャリア適応力)を支援します。

ブルースティンのワーキング心理学は、「キャリア」という言葉が持つ華やかなイメージの裏にある、「生きるために働く」という人間の本質的かつ切実な営みに、心理学として真正面から向き合った画期的な理論です。現代の雇用不安や格差社会において、その重要性はますます高まっています。