この記事について
今、聴いているオーディブルの「手紙屋」から、考えたことを書きます。
「手紙屋」の中で、人を種と表現していました。
そのフレーズが心に残り記事にしてみようと思いました。
植物の育て方
植物を育てたことはありますか?
我が家は、小さいながら庭があり、そこにオリーブやシマトネリコを植えています。
10年経過した我が家の木は、伸び伸びと大きく育っています。
個人的に言えば、このままぐんぐん、大きくなって欲しくないのです。
なぜなら、大きくなると管理も大変になり、隣地へ越境したり、大きくなればなるほど、根が太く広くなり、隣地へ影響を及ぼす恐れがあるからです。
こうなるなら、初めから、鉢植え等で根の生育を抑制し、大きくなることを制限した方がよかったかな。と今更ながらに考えています。
そんなデメリットはあるのですが、春から夏にかけては、木陰を作り、その下で本を読んだり、書き物をすることが、私の癒しの1つとなっているので、悪いことばかりではないのですが。
そして、このブログも今、まさにその木陰で書いています。
植物を誰が、どこで、どのように育てるか。それによって結果が変わってきます。
植物と一言で言い表していますが、温暖を好むものもあれば、多くの水を必要としないものなど、多種多様なものがあります。
その植物が必要とする環境を与えない限り、芽は出ないのです。
そして、どのように育てるのか?
これも重要な要素です。
大きく育てたいのか、小さく育てたいのか。
真っ直ぐ伸ばしたいのか、横に広く育てたいのか。
そんな意思があってその植物はそのように育ちます。
その意思がなければ、今いる環境に適した育ち方をします。
これって、人間に似ていますよね。
人間も同じ生物
植物に必要な環境がなければ芽が出ない。
植物の中には育てるのが難しい種類のものありますが、栄養のある土に適度な水と光があれば芽は出ます。
人間も同じように、適度な栄養、休養、知識、経験、それらのものがあって初めて、芽を出すのだと感じました。
どれかが、1つだけ秀でていても芽は出ない。必要としているものを必要なだけ、与えてあげなければいけないのです。
ステレオタイプ化した必要な要素
植物によって、必要なものが違います。植物にだって、違いがあるのです。
人間であればなおのこと、違いはあるはずです。
ですが、現代社会が示している必要な要素は、一般化されたものであり、それが概念化してしまい、疑うことを忘れてしまっているように思います。
学校、教育、学歴、仕事、住まい、車、結婚、友人など。必要であるのですが、どうして必要なのかを理解しないまま、それが必要であることだけを教えられて、それを求めるように生きるよう育てられます。
私は、それが、まるで「鉢植えに植えられた木」のように感じました。
鉢植えの中だけの自由。鉢植えの中だけの自己表現。
自分にはもっと大きくなることができる可能性があるかもしれない。
ですが、鉢植えという固定概念というフレームが邪魔をして大きくなれない。
その鉢植えに植えられている種は、それが鉢植えの中であることなど、種である段階ではわかりません。
きっと、限界まで大きくなって気づくのでしょう。
自分はこれ以上は大きくなれないのだと。
鉢植えの中の自分
自分もきっと、「鉢植えの中の木」なのだと思います。
何が幸せかも考えず、ステレオタイプの幸せを追って生きてきた節があります。
それが、不幸であったか?と問われれば、否です。
今現在、幸せです。ステレオタイプの幸せは、自分にとっては間違いなく幸せです。
ですが、自分で考えて選択した幸せではありません。
そこが幸せだよ。と教えてもらった道の先にあったものです。
1度しかない人生だから失敗は許されない。だからこそ、親切な周りの人々が間違わないように近道を教えてくれているのだと思います。
でも、考えないから。つまらないのです。
攻略法の解っているゲームのように。
鉢植えから出るということ
かといって、今の鉢植えの中から出るか?と言われれば、それも難しいです。
この環境に特段の不満もありません。
なら、何を文句を言っているのか?と思うかもしれませんが。
ただの「無いものねだり」なのかもしれません。
ただ、ただ、前を見て必死に自分の力で大きくなろうとしている人たちが眩しく見えるのでしょうね。
まとめ
言いたいことがまとまらず、書き殴ってしまいました。
人生というものを父が亡くなってから、考えるようになったのも原因の1つかもしれません。
生まれてから、死ぬまでという尊い時間で、何をしなければならないのか。何を残すのか。何がしたいのか。時間はそう多くはないかもしれませんが、考えたいなと思っていたりします。
もう少し、いろいろな書籍や経験を詰んだのちに、また、このテーマで書き直したいなと思っています。
まとまりのない記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。
また、次の記事でお会いしましょう。