『世界は贈与でできている』
〜資本主義の「すきま」を埋める倫理学〜
近内悠太 著
Contents
この本を薦めたい人
- 仕事にやりがいがない
- 資本主義社会の味気なさに嫌気を感じている
- もっと世界の優しさを感じたい
- 何のために勉強をしているのかわからない
と思う人にお勧めできる一冊です。
この本から得られるもの
- この世界に溢れる「贈与」という存在の正体
- 「贈与」の受け取り方
- 仕事のやりがいを得るためのヒント
- 勉強、教養を身につけるための意義
著者のプロフィール
1985年神奈川県生まれ。 専門はウィトゲンシュタイン哲学。本書の中でもウィトゲンシュタインの言語ゲームに触れられている。自分はウィトゲンシュタインには興味がありましたが、理解するのが難しいと聞いていて手を出すことができなかったのですが、わかりやすい説明で言語ゲームの説明がなされています。
リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師でもある。この「知窓学者」は「全ての学習 に教養と哲学を」をモットーに、「主体的・対話的で深い学び」を実現するために少人数制授業を実施している。こんな塾、凄く面白そう。見たところ、大人は対象外みたいなので、残念です。
「世界は贈与でできている」の概要
世界の優しさを受け取る能力
贈与を受け取る能力=「想像力」著者者そう述べています。
また、「想像力」=「求心的思考」+「逸脱的思考」とも言っています。
それでは、まず「求心的思考」、「逸脱的思考」がなんなのか見ていこうと思います。
逸脱的思考
逸脱的思考というのは、今ある常識を疑うこと。この常識という前提が崩れたらどうなってしまうのか。ということを考える思考で、本書では例として地球の自転が停止することを挙げています。自転は止まらないということを前提に社会が作られていて、それを否定する人はまずいません。逸脱的思考はそれを疑う思考です。
もっと身近なものジャンケンで考えてみましょう。ジャンケンで、グーがパーに負けますが、それはジャンケンをしようとした時に暗黙で交わされるルールであって何故そうなのか、なんて、ジャンケンをする時、考えませんよね?
逸脱的思考はそのルールを疑うのです。ジャンケンの例で言えば、グー(石)はパー(紙)を破ることもできるから、グーがパーに勝ってもいいはずだ!とすることです。そうすると、大変です。ジャンケンでは勝負を決めることはできません。ジャンケンが持っている約束の上で成り立つ機能が使えなくなるのです。
何のために逸脱的思考が必要なのか
それでは、このような前提を疑う思考が何かの役に立つのでしょうか?
著者は「世界と出会い直すため」と述べています。
このような前提は日常生活の中では前提であるが故に疑われません。疑われないということは、意識もしない。意識しなければ忘れてしまう。そう、見えいても見えなくなってしまうのです。地球の自転も、ジャンケンのルールも、それがあるからこと享受できる恩恵があるのです。当たり前にあるわけではなく、与えられているんです。それの当たり前で見えなくなっている世界のルールを可視化することによって、気づかないうちに多くのものが僕らには与えられていると言うことを再認識することを、著者は「世界と出会い直す」と表現しています。
この「ある」ものに気づくという思考は、見えない贈与を受け取るために必要な能力であると言うことは深く納得できますね。
求心的思考
求心的思考はそれとは逆に、常識は不可侵な前提として疑わず、その常識と照らし合わせた時の不合理、違和感を察知する思考です。
またまた、ジャンケンの例を上げます。ジャンケンでグーを出した人と、パーを出した人がいるとします。その時、審判がグーを出した人を勝者とします。
この時に違和感を感じますよね。あれ?パーが勝ちじゃないの?って。
この違和感を感じる能力が求心的思考といいます。僕たちにはジャンケンのルールが暗黙の了解としてインストールされています。なので、そのルールから外れたものに違和感を感じます。それは、ルールという不可侵なルールがあって、その前提の上で成り立つものだからこそ、違和感があるんです。
そこにジャンケンのルールが仮になかったとしたらどうでしょうか。
ただ、拳を握った手と、開いた手があるだけです。そこに意味はありません。
何のために求心的思考が必要なのか
そして、重要なのはこの違和感には多くの情報が含まれているという事です。先のジャンケンの例であれば、もしかしたら、審判とグーを出した人はグルで何かを企んでいるのではないか?とか、審判の人は目が見えていないのではないか?など、前提から外れた違和感から多くのことが推測できます。著者はこの能力こそ贈与を受け取るのに必要な能力だと述べています。ただ、この場合、逸脱的思考を持ち出し、前提を覆してしまえば、先に出た違和感からでる推測ができなくなります。だから、求心的思考で考える際は絶対にそのルールを疑ってはいけないのです。
成熟した市場経済だからこそ生まれる贈与
贈与は市場経済の中では違和感として現れる。と著者は語っています。これはどう言うことか。
市場経済は全ての「もの」を対価として変換します。市場経済で暮らす人はその市場経済での常識を踏まえて生活をします。そう、これがこの世界の前提、ルールです。
ですが、贈与というのは、(本書では「対価では変えられないもの」=贈与と呼んでいる)対価では変えられない異物、違和感として市場経済に現れるます。その市場経済が完全であればあるほど、その違和感は鮮明に現れます。その違和感を察知する能力が「求心的思考」ということです。そして、その違和感は贈与の贈り主の「想い」へと導いてくれるのです。さらに、そこで見えないものを見る思考「逸脱的思考」で、仮にその贈与がなかったら。と考えます。そうすることで、贈り主の深い想い、愛情を受け取ることができるのです。
だから、贈与にはこの「求心的思考」と「逸脱的思考」から成る「想像力」が必要になるのです。
本当にざっくりとまとめると
「求心的思考」=贈与に気付く能力
「逸脱的思考」=贈与のありがたみを再認識する
となりそうですね。
勉強する意味(教養を身につける理由)
これまで書いてきたように、この世界は色々なルールで成り立っています。そして、そのルールや前提、常識を知らないことには、違和感に気づきません。気づかないという事は、すで贈られている贈与に気づかない、受け取れないという事です。そんな悲しい事ないですよね。
世界には多くの優しさが贈られているのに、それを無視していることになります。そうならないためにも、教養という世界の前提をしっかりと学ぶ必要があるのだと著者は述べます。
この論理は非常に納得できます。
ただただ、市場経済で対価を得るためだけに教養を身につける、というのでは、少し味気がないですよね。何よりモチベーションが枯れてしまいそうです。
ですが、宇宙、世界、過去、全ての「もの」から贈られた多くの贈り物を受け取り、それを未来につなげる使命があるのだと考えられたらどうでしょうか。
そう考えて勉強した方が内的動機になって、枯れることのない原動力になりそうですね。
まとめ
先日読んだ「GIVE AND TAKE」はGIVE(贈る)に焦点をあてた一冊でした。今回読んだ「世界は贈与でできている」は、ギバーが与える「もの」を深掘りし、さらにその「受け取り方」に焦点を当てている一冊となっています。
多くのギバーから届いた宛先も宛名もない、この市場経済だは不合理として映し出される「贈り物」が、この世界には既に多く贈られています。それは、現存する人間とは限らず、もう既にこの世を去っている人々、さらには人間に限らず、存在する全てから、それは届いています。そして、その贈り物はまた、次の受贈者を待っています。
いつか誰かに届くことを願う贈与者の想いとともに。
僕たちは、それらを受け取る義務があり、その贈与をさらに誰かへ送る義務がある。そんな考え方ができれば、この世はもっと優しく、素晴らしい世界になるのではないでしょうか。
僕たちにはその能力があるんです。