生きるための表現手引き
この記事について
「生きるための表現手引き」著者:渡邉康太郎
を読んで感じたことを書いています。
自分が感じたことを忘れないようにするための備忘記録です。
とるにならないもの
雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さずに裸足で来やがって
盛田志保子 木曜日より
生き延びる(傘をさす)のではなく、生きる(雨を全身に浴びて感じる)ことを感じさせる文章。
雨に濡れないために傘を持ってこいと言った。
これは、濡れてはいけない。という既存フレームが前提の会話。
しかし、迎えに行った人間は、その前提を無視し、「ただ迎え」に行った。
迎えに行くこと。
「ただ迎えに行く」こと、それにどんな意味を付与するのかは、読者の想像に委ねられている。
一体、何を考えて迎えに行ったんだろうか。
しかも、裸足で。
雨の地面は気持ちいいのかな。とか、雨に濡れるつもりで外に出るとどんな感じだろう。
なんて、考えていたら、濡れてはいけない理由なんて、大したことではないのだなと思えてきた。
ただ、濡れると着替えなければいけない。とか、風邪を引くからとか。
そんなもの。
雨=嫌なもの=面倒な天候=自由が効かない
雨に思った以上にネガティブな印象を与えていたことに気付いた。
濡れたっていいじゃないか。
雨に濡れることは、「とるにたらないもの」かもしれないが、普段、避けている雨に濡れる、裸足で歩くという非日常をあえて感じることにも、「とるにたるもの」と同じように価値があるのではないかと感じた。
生きのびることは、社会の普遍的なテーマ
雨に濡れてはいけない。
これは、「生き延びること」を前提として、社会の普遍的なテーマからくる価値観である。
「生きること」は、一人一人の価値観からくる個人の人生に紐づけられる主観的であって普遍的ではない。
役に立たないもの、とるにたらないものの中に、表現すべきものがある。
その中に、「わたし」という独特のものがあるのだと感じた。
表現については、社会という部分から一定の距離をとる方がいいのかもしれない。
社会には固定化された価値観がある。
多くの人のために何かをしようとすると、お金という価値観を始めとした、普遍的な固定化されたニーズを考えなければいけない。
表現とは外へ押し出す行為
この本での表現とは、「外へ押し出す行為」として捉えられていた。
自分の存在というもの自体も、社会に晒されているという点においては、「表現」として捉えられる。
言葉もまた、「表現」の1つの形。
とても広い概念だなと感じた。
でも、そう考えると、自分も多くのことを表現してきたなと思う。
自分もすでに、表現者なのかと、何だか少し自己効力感が上がった。
あらゆる創作は模倣の失敗である。
失敗は価値の否定ではなく、模倣が生み出す差分の呼び名。
創作は、模倣から始まる。
確かに、0からものを作ることは殆ど不可能だなと思う。
すべてのものは、過去の技術や知識の上に成り立っていて、それらの発展によって成り立っている。
どんなに模倣をしようとも、模倣はしきれず、その差異がオリジナリティとなる。
まず、真似る。
これでいいんだと思うと、創作へのハードルがすごく下がる。
見方を変える
順質異化(じゅんしついか)
既に知っていると思つていた、いわば当たり前の物事に驚くこと。
外国人から日本を見たら、そこらじゅうに驚きがある。
当たり前をもう一度、今持っている視点ではない視点で見直してみる。
私たちは異質馴化には慣れている。
自分たちが知らない知識を取り入れることに慣れていル。
驚きは予想や期待の裏切り。
慣れは常識という枠組みの形成。
自分たちの持っている常識からしか物事を見ないがために、自分たちの目の前にある不思議に気付いていない。
世界を発見し続けること。そして驚くこと。
これが「表現」することにとってとても大事な要素となる。
異なる方法で世界を見つめることができれば、何も生み出さなくても、昨日と同じはずの世界がまったく新しく見えるはず。
このあたりは、リフレーミングと通ずるところがあるなと感じた。
まとめ
book caféで読んだ本のメモを備忘記録として記事にしてみました。
今勉強しているリフレーミングの要素もあり、とても参考になりました。
「世界を発見し続ける」
良い言葉だなと思いました。
今、私がこの世界に生きていることが、本当はとても不思議なことなのに、その不思議が当たり前すぎて、考えもしなかったことに気付かされます。
また、人間は、「心」という不思議なものを持っていて、それを俯瞰的に感じられる能力を持っているのにも関わらず、この「心」に無関心であることも再認識しました。
私は、この「心」をもっと知りたい。
そんな風に感じました。



