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【読書備忘記録】スピノザの世界

この記事について

スピノザの世界(上野修著)の読んでいる最中ですが、今まで読んでいる部分を忘れないようにまとめています。

この記事では、「1.企て」を纏めます。

スピノザが目指すもの

スピノザが探求した中心のテーマは、「最高の喜び」。

普通の人々は、富、名誉、快楽という一過性の、短絡的なものに引きづられて生きている。

この一過性の快楽は、満足を知らず、永遠に充足しない。

スピノザは、このような喜びではなく、永遠に終わらない「最高の喜び」を求めた。

「最高の喜び」=純粋享楽としている。

純粋享楽とは

純粋な喜びを追求することで、世俗的な富や名誉、快楽といった一時的な満足から解放され、人間としてより高次の存在状態に達すること。

迷わず飛び込め

スピノザは、「最高の喜び」を探求するために、今現在持っている世俗的な中途半端な喜びを放棄することを決めたものの、スピノザであっても、世俗的な喜びを簡単に手放せないと悩んでいた。

しかし、捨てねばと思って捨てられなかった中途半端な喜びを探究を初めて見ると、それへの執着は問題にならなかった。

探求の方が、なぜか、禁欲を不要にしてしまった。

中途半端な欲望など、最高の喜びを求める過程においては、問題にすらならなかった。

衝動

目的の根源、それが「衝動」

目的をずっと深掘りしていくと、最後に行き着くのは、

「事物がその都度、めいっぱい自己を肯定」

という、シンプルな人間の本質に辿り着く。

スピノザは、これを「努力(コナトゥス)」と呼んだ。

努力(コナトゥス)は、現実的本質であり、自己を肯定するために身体に何かをさせようとする。

この何かが「衝動」だ。

衝動と欲望の違い

欲望は衝動から引き起こされる。

衝動との違いは、意識的を伴った衝動であること。

衝動の目的は、「努力」であり、「自己の肯定」である。

しかし、欲望の目的は、「努力」ではない。

富であったり、権力だったり、様々だ。

衝動は生の形で意識にのぼることがなく、欲望という目的を誤認し加工されて経験される。

この衝動と欲望のギャップがスピノザ哲学の重要な部分。

欲望の否定は努力(コナトゥス)の否定

欲望の本質的な目的は、「努力(コナトゥス)」である。

欲望の否定は「努力(コナトゥス)」の否定になる。

欲望には忠実で構わない。

より強く、より完全に、という完全性を求める欲望は、人間である以上、追求せずにはいられない、人間の本質である。

言い換えれば、「努力(コナトゥス)」である。

最高善への道こそ、真の善

スピノザは、完全性を求める人間の性質を「最高善」と呼んでいる。

「最高善」の定義を、「自分の本性よりもはるかに力強いある人間性を享楽する」とした。

そして、「最高善」までに到達するための全ての手段を「真の善」とした。

また、その「最高善」へ進んでいる最中を「人間的完全性のしるし」としている。

全ての手段の中に、世俗的な中途半端な善である、富、名声、快楽であっても「最高善」の手段となり得るのであれば、肯定される。

結果的に中途半端な善は捨てずに済む

ここに、「探求の方が、なぜか禁欲を不要にしてしまう」という疑問の答えがある。

故に、禁欲は不必要だということ。

この、完全性のためには、全てを肯定するという部分は、ニーチェの「力への意志」に通ずる部分があると感じた。