この記事について
1月読書の中の1冊「あした死ぬ幸福の王子」の感想です。
ハイデガーの哲学を老人と王子との会話によって学べる作品です。
非常に読みやすく、理解しやすい作品でした。
時々、読み返したくなる本です。
作者は、飲茶さんです。
飲茶さんの作品は、哲学を一般人にもわかりやすい形で噛み砕いて教えてくれるので哲学を学びたいけど難しすぎると思っている人にはお勧めです。
人間の「本来性」について
この本で一番衝撃だったのは、人間の「本来性」についてです。
人間は、日常的には非本来的に暮らしているとしています。
では、非本来的な暮らしとはどのようなことか。
非本来性
日常的な「ひと」の在り方
社会的規範や期待に従って生きる状態
自己の固有の可能性を見失っている状態
この本には、誰かの道具として存在している様を非本来的な生き方としています。
社会では、会社のための道具として。家庭では、妻もしくは子の道具として。その役割によっての使われ方は変わります。役割毎にその使われ方があるようです。
本来性
世界は誰かとの関係で成り立っていて、この本では道具として関連づいているという説明がされています。これを「道具連関」と言います。
しかし、唯一、誰とも関係づけられていない存在がいます。
それは、私から見た「わたし」です。
この「わたし」は、世界の関係性の元となっています。
言い換えると、世界を1つにまとめているのが「わたし」という存在です。
この点において、「わたし」は世界において、唯一無二の存在であり、変えの聞かないとてもユニークな存在ということになります。
主観的自己と客観的自己
普段、何気なく暮らしているうちは、自分が唯一無二であることに気づきません。
なぜなら、自分以外の存在は、「わたし」を道具として見るからです。
人間は、自分という存在を他人を通してみることで自己を理解しようとします。これを客観的自己と言います。しかし、自己には主観的自己という、自分で自分を規定する自己の形もあります。この主観的自己を意識せず、客観的自己のみを見つめることによって、「わたし=道具」と認識してしまうのです。
これについて、みなさんも心当たりがあるのではないでしょうか。
誰かの価値観に沿って、自分を定義してしまう。
それは、客観的自己に対して自己一致をさせてしまっているということに他なりません。
客観的自己は、他人から見た道具として存在する「わたし」であると言えます。
これは、本質的な自己ではありません。
死が人間の「本来性」に気づかせる
この非本質的な自己から、どのように抜け出すのかという問いに対して、ハイデガーは「死を意識する」ことであると示しています。
死は有限性の象徴です。
人はいつか死ぬという、1+1=2ほど明快な事実を理解はしているものの、自分と死との間に沢山の距離をもうけていないでしょうか?
そりは、死は理解していても、意識が出来ていない状態です。
1時間後に死ぬとするならば、あなたは何をするでしょうか?
恐らく、その選択された行動は「道具としての行動」ではなく、「本来的な行動」であると思います。
わたしは、今現在であれば、家族を集めて、「家族と一緒にいる」を選択します。
これが、わたし固有の「本来的生き方」なのかなと思いました。
思っていた以上に人並みで少し拍子抜けしました。
もっと、偉大なものが出てくることを期待したのですが、自分はどうも普通の人間の用です。
まとめ
ハイデガー哲学は、難解で有名ですが、この本は、とてもわかりやすくハイデガー哲学を伝えてくれます。
読んでよかったなと思える1冊でした。
図書館で借りましたが、手元に持っておきたいなと、思うくらい良かったです。
ハイデガー哲学には、理不尽な世界を生きる我々に対して、力強く生きろというメッセージが込められているように感じました。
いつか、原書が読めるようになりたいなと思っています。