My Self

決定論的に人生を考える

この記事について

2024年12月に読んでいる「僕という心理実験」(妹尾武治著)において、決定論の考え方が出てきましたので、その整理を兼ねて自分なりに決定論的に人生を考えてみます。

決定論とは

決定論は、世界の出来事や現象がすべて原因と結果の因果関係によって決定されている、という哲学的な立場を指します。

決定論の考え方では、現在の出来事は過去の出来事の結果であり、未来も現在の状態によって完全に規定されると考えられます。

この決定論を考えるときに、対になって出てくる考え方があります。

それが、自由意志という考え方です。

自由意志とは

自由意志は、一般的に「自分自身の選択や行動を、外部の強制や制約に縛られずに、自分の意志によって決定できる能力」を指します。

その存在については、哲学、科学、宗教など多方面で議論が続いており、決定論や非決定論との関係が焦点となっています。

現実的には、自由意志が存在すると信じることで、個人や社会の責任感や道徳的秩序が成り立っている側面があります。

自分の考え

自分は自由意志か決定論かについて、当初は自由意志があるとして、未来は自分で自由に決められると考えていました。

そもそも、今の社会の前提がこの考え方で進められているように思います。

ですが、最近、決定論についての本を読むうちに、決定論的に考えた方が腑に落ちる部分も多くあり、今は、中立的やや決定論寄りな考え方を持っています。

なぜ、そう考えるようになったのか、理由を3つ書き出します。

理由1 全体の流れに身を任せられる安心感

自分の人生が、より大きな因果の流れの中にあると認識すると、孤立感や無力感が軽減されます。

この大きな因果の流れというのは、宇宙の因果をイメージしています。

スピノザが「神即自然」と言いました。

神(自然=宇宙)が全てを作り、全てを知っていると考えると、人間には不可解に思えることも、宇宙から見たら、きっと1+1くらい、明確なものに見えるのかもしれないと考えることができるなと思いました。

未来が決まっていないと思うのは、人間から見た世界においてです。

世界から見たら、未来はすでに決まっている。

要は、視点をどこの置くかの問題なのではないかと感じます。

きっと、今、こうやってブログを書いていることも、次の瞬間眠くなって寝てしまうこともあらかじめ決まっていることだと思えたら、悩まず、自分の思うがまま、一心不乱に突っ走ることができるなと思います。

それで突っ走ったのなら、そうなる運命だっただけだし、仮に、突っ走らなかったとしても、それもそれて決まっていたということ。

決定論は、答えの出ない無駄な問いを吹っ飛ばしてくれる力があると思います。

理由2 過剰な自己責任からの解放

決定論では、自分の選択や行動が完全に「自由意志」に基づいているわけではなく、過去の経験、環境、遺伝、さらには社会的な条件によって決まっていると考えます。

これにより、失敗や望まない結果に対する自己批判が和らぎます。

理不尽な状況や受け入れられない現実に対して、その責任を自分に向けてしまうことが多々あります。

自分の能力不足、自分があの時ああしていれば・・・・。など、

ですが、決定論的に考えれば、「自分がこうなったのは、必然的な要因があったのだ」と受け入れやすくなり、自己嫌悪や罪悪感を軽減できます。

何をどう考えたとしても、その現実は変わることはありません。

その現実をどう見るかでしか、そこから逃げることができないのです。

そんな時、決定論的な考え方は、自己嫌悪や罪悪感から逃れるための避難所となってくれると思います。

理由3 生き方に「意味」を見いだしやすい

決定論的な視点では、すべての出来事が過去の出来事から導かれるため、現在の苦しみや困難にも「何らかの意味がある」と捉えることができます。

「この経験があったからこそ、今の自分がある」「これも次の出来事につながるプロセスだ」と考えることで、苦しい状況を前向きに解釈できるようになります。

最近では、自分に起こるいろいろな事柄について、意味を考えるようにしています。

「今、このような話が自分に来たということは、どういうことなんだ?」というふうに考えます。

辛い、楽しい、面倒というような、一過性の感情から距離をおいて、世界が求めていることを自分なりに理解しようと心がけます。

そう考えると、本当は選択したくない選択肢でも、「それを選ぶべきなのだろう」と考え、今までの自分では選ばないような選択をするようになりました。

まとめ

決定論という、「未来は初めから決まっている」というような、一見、非科学的で、馬鹿馬鹿しい考え方ですが、混沌とした社会を生き抜くためには、非常に有意義な考え方だと思います。

結局、人間は見たいようにしか世界を見れない。

そういう意味では、世界を想像できる神でもあると自分は思います。

だから、どう考えるか。どう世界を見るか。が非常に大事なのだと思います。

決定論は、その方法の1つであると思います。

この考え方に固執することなく、柔軟に自由に世界を見られるように、知識を深めていきたいなと思います。